城攻め

『小牧・長久手の戦い』で直接対決した徳川家康と豊臣秀吉、負けたのに秀吉が天下人となったのはなぜ?

『小牧・長久手の戦い』で直接対決した徳川家康と豊臣秀吉、負けたのに秀吉が天下人となったのはなぜ?

1584年(天正12年) 織田信雄・徳川家康連合軍と羽柴秀吉は小牧・長久手の戦い

戦国の世で唯一、徳川家康と羽柴秀吉が直接対決した戦いです。

織田信雄は、信長の次男ではあるが、信長の息子と思えないくらいの…あまり賢くなかったようです。もちろん家督を継ぐこともないので北畠家(伊勢の有力大名)に養子に出されます。しかし、信雄は信長の命令なく隣国の伊賀に攻め入りおまけに負けてしまい信長から大激怒されたこともあるようです。

家督は三法師と決定し織田家の実権は実質秀吉の手にわたります。

賤ヶ岳の戦いが終わると信雄は秀吉の傘下に下るよう命令されますが、織田家の次男というプライドがあるので受け入れられません。その結果、秀吉と信雄は対立関係になり当時東海地方で勢力を伸ばしていた徳川家と同盟を結ぶようになりました

秀吉は家康に局地戦で完敗しますが、2年後の大阪城で会見したときに立場は逆転します。負けたはずの秀吉がなぜ家康を臣下とし天下人となったのでしょうか

小牧・長久手の戦い

天正12年(1584)4月9日 織田信雄(信長の次男)・徳川家康連合軍羽柴秀吉小牧・長久手の戦いで直接対決します

天正12年(1584年)4月に、秀吉軍と家康軍は、それぞれ犬山の楽田(犬山市)と小牧山(小牧市)に陣を敷いて対峙していましたが、 秀吉軍は、羽柴秀次を総大将として支隊2万人を家康の本拠地岡崎城に向けて侵攻したことから、長久手の地で激突することになりました。

秀次軍の動きはすべて、家康に従う伊賀衆の情報網に捕捉されて筒抜けでした。

家康軍

同盟を結んだ信雄と家康ですが、秀吉と敵対している大名と手を結んで秀吉と対抗しようとします。

  • 佐々成政(富山)
  • 長宗我部元親(四国統一をした)
  • 紀州の雑賀衆
  • 後北条家(関東地方)

 

秀吉は家康のこの動きをうけて信雄を引きずり込もうと調略を行いますが信雄はこれに気づき調略を受けた家臣を処刑。これを受けて秀吉は信雄を倒すために挙兵。これが小牧・長久手の戦いが起こることになりました。

秀吉軍

  • 池田恒興(秀吉軍の名将)
  • 池田元助(恒興の長男)
  • 鬼武蔵と恐れられた、森長可(恒興の娘婿)

これらの武将が討ち死にし、多くの戦死者で血の川が流れたと言われています。

 

両陣営にらみ合いの状態

信長の家臣、池田恒興が突如、秀吉に寝返り犬山城を占拠してここに本陣をおきました。家康軍は犬山城からほど近い小牧山城を奪い取りここに着陣。

犬山城と小牧山城の距離は15㎞ほど。こうして両者はにらみ合いの状態に突入しました。

 

羽黒の戦い

犬山城を占領して尾張北部を占拠した秀吉軍。秀吉にとっては小高い山の上にある小牧山城の存在が邪魔でした。そこで池田恒興が小牧山城を占領すべく小牧山城からほど近い羽黒という地域に進出します。

その動きを察知した家康は家臣、酒井忠次をはじめとした別働隊を派遣して池田恒興の軍に奇襲攻撃をしました。全く備えてなかった恒興の軍は壊滅的な被害を負って撤退。羽黒の戦いは家康軍の勝利に終わりました。

 

小牧・長久手の戦いの終結

秀次軍は

  • 第一隊 – 池田恒興 – 兵6,000人
  • 第二隊 – 森長可 – 兵3,000人
  • 第三隊 – 堀秀政 – 兵3,000人
  • 第四隊 – 羽柴秀次 – 兵8,000人

細長く四隊に編成されていますが、一番遅れて尾張旭白山林で休息中の秀次隊8000名は、後ろから襲い掛かって来た徳川先発隊に壊滅させられます。

 

その後、徳川本隊が地形と情報を十分に利用し、第三隊堀隊と第一隊池田恒興隊、第二隊森長可隊を分断させ、それぞれ壊滅させたことで、 長久手の戦いは徳川勢の大勝利に終わりました。

激戦の終結は、午後2時頃。家康は4時半頃に北の小幡城へ入る。これを聞いた竜泉寺近くにいた秀吉は家康を攻撃しようとしたところを諸将に朝まで待つように言われ思いとどまり、一方家康は秀吉に夜襲を掛けようという家臣を退け夜の8時頃ひそかに小幡城を出て小牧山に帰ったようだ

 

『小牧・長久手の戦い』で勝利した家康、秀吉が天下人となったのはなぜ?

この戦いは秀吉軍10万人対徳川軍3万人から始まり、兵力差がある中、家康は優れた戦術を振る舞い、長久手の戦いで大勝利を収めました。

しかし、その後数か月に及ぶ長い膠着状態が続いていた中、11月に秀吉側から総大将の信雄宛に伊賀と伊勢の半国割譲と持ちかけて、単独講和を結んでしまいました。

ここ半年の戦の勝敗が急に無意味になり、更に秀吉はこれによって天下統一に一歩近づけたので、勝利したとも言えるでしょう。

1584年11月 激戦のあと秀吉と信雄の間で和議がなされ、8ヶ月にわたる『小牧・長久手の戦い』が終結しました。

長久手古戦場跡

『小牧・長久手の戦い』で家康が勝利したのが『長久手の戦い』。この場所は、長久手古戦場跡として訪れることができます。

この場所では、羽柴方の森長可が徳川方の足軽(杉山孫六)の狙撃により眉間を打ち抜かれて即死しました。森長可の討ち死により次第に徳川方が優勢になります。

羽柴方の池田恒興も徳川方(永井直勝)の槍により討ち死にしました。恒興の嫡男(池田元助)も徳川方(安藤直次)に討ち取られました。

古戦場周辺には、森長可の供養塚である『武蔵塚』池田恒興の供養塚である『勝入塚』池田元助の供養塔である庄九郎塚がある
住所

【古戦場公園】〒480-1121 長久手市武蔵塚204
【色金山歴史公園】
〒480-1103 長久手市岩作色金37-1

アクセス

【古戦場公園】
●リニモ(東部丘陵線)「長久手古戦場」駅下車。徒歩3分
【色金山歴史公園】
●福祉の家線・三ヶ峯線・北部線・東武線「安昌寺」下車。
●地下鉄東山線「藤が丘」発「福祉の家」行き、「瀬戸駅前」行き、または「菱野団地」行き「岩作」下車。北へ徒歩5分

 

徳川家康の子育て術、今も役立つ教訓と名言